内なる艶景を求めて
「角卓とラ・インの作家たち展」
神戸市立小磯記念美術館館長 神戸ゆかりの美術館館長 岡 泰正
ラ・イン会は、フランス語の冠詞「la」と英語の「in」を組みあわせた、今は亡き角卓(かどたく)先生が創り出された名称である。私などは、この名称を「わが内なるものと向き合い、その探求を外に力強く表現しよう」という、創作する人々の行為を象徴し鼓舞する警句(エピグラム)のように感じてきた。
ラ・イン会は、角先生が新しい具象絵画追求の場として神戸に創立された研究団体である。1961年、具象新人展として神戸国際会館で開催された展覧会が端緒となり、1977年、日洋展発足とともに「ラ・イン会」の名が誕生し、一時変わったが、
1987年から再び「ラ・イン会」の名称に戻して現在に至っている。1961年から数えて今年で54年目をむかえる。現在、天野富美男氏を代表として、「新しい具象絵画を目指し、意欲的で斬新な作品を追求する」という会の理念のもとに集った関西を基盤とする作家たちが切磋琢磨しあい、俊英は日展、日洋展を活動の場として活躍するに至っている。角卓先生は、平成11年(1999年)3月23日、71歳で亡くなられた。制作姿勢や批評は、厳しいものだったが、人情味あふれた気取りのない性格は、多くの人に愛されていた。先生は渾身、芸術家であり、教育者であった。角先生が描いた、生まれ故郷の讃岐・高松、取材されたカーニュ、グアテマラなどの地は、太陽のもとに人も自然も生かされている。人も虫も樹木も、大地に生き、死に、生まれかわる。角先生がその意味で、密教的宇宙の図式ともいうべき曼荼羅の構成に惹かれたのは自然な流れかと思われる。角先生がフランスの画家・アイズピリに触発された色彩のシンフォニーは、さらに画家がヨーロッパに対する日本の美を意識することによって、より神秘性を帯びるものになった。 この色彩感や発動する生命力がラ・イン会の特質として受け継がれてゆくのである。
ラ・イン会の会風をひとことで表すとすれば「健気な熱気」、という言葉がふさわしいかも知れない。もちろん、絵画に技術は必要だが、気にかかる対象と向き合い、対象の構造を探求する姿勢こそが何より優先されなければならない。巧みに描くための技術ではなく、意図することを色と形にするための技術である。黒田清輝が箱根滞在中に妻となる照子を、「下絵も何もなくぶっつけにカンバスに描いた」、《湖畔》(東京国立文化財研究所)という重要な作品誕生の場合でも、黒田はフランスで学んだことを踏まえながら、日本の国土になじんだ平明な画風を独自に探求しているのであって、革新的な作品がひとりでに生まれ出たわけではない。実際、黒田は湖畔で「明日からこれを研究するぞ」と言葉にして湖畔の照子と向きあうのである。
制作者は、対象に心動かされ向き合った時、なぜ描くのか、どう描くかを考えなければならない。その創作の意欲が、率直で健康的であるというのが、「ラ・イン会」の会場を満たしている空気であると言っていい。不器用に率直によく考え、探求することこそが本質をつかむ最良の手段なのである。
角先生が遺された作品は、勇気づけ、高揚させる力を持っている。この熱気は絶えることなく作品が発し続けているものであり、後進の制作者は、これを受け継ぎ、新たなスタイルを創り出して、角先生の仕事を超えていかなければならない。
公的な展覧会を措けば、おそらく「ラ・イン会」展が、洋画の公募展としては神戸で唯一であるだろう。この意義を衰微させることなく継続させ、あわせて会は若い感性を入れていかなければならない。
角先生の前に立つ時、「続く者たちよ、それぞれの内なる艶景を求めてゆけ」と、つば広の帽子を小粋にかぶった先生が、泉下で鼓舞し続けているように感じられる。艶景の画家・角卓の色彩の開眼に、記憶の底にある密教の葬儀に用いる幕の色が関っていたことは示唆的である。「さあ、心の奥深いところを探し求めにゆこう!」(Allons à la recherche des recoins les plus intimes du coeur.)(アロン ザ ラ ルシェルシュデ ルコワン レ プリュ ザンティム デュ クール)」、それぞれの内なる艶景を求めて、『ラ・イン』と。
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